1928年8月28日、モティラル・ネルーが議長を務める委員会が作成した報告書が、インドのラクナウで開催された全党会議で正式に提出され承認された。これは、イギリスの植民地支配からの憲法上の自治を求めるインドの主張において、決定的な一歩となった。
英国国務長官が発した挑戦状
この報告書は、インド担当英国国務長官のバーケンヘッド卿が、インドの指導者たちが自国の憲法を起草する能力に疑問を呈したことに端を発している。これに対し、全党会議はモティラル・ネルーを委員長とし、息子のジャワハルラール・ネルーを事務局長とする委員会を設立した。この委員会には、スバス・チャンドラ・ボースなどの人物が参加し、インド国民の意思を反映した憲法を起草する任務を負った。
8月15日という早い時期に作成された最終案では、インドにイギリス連邦内の自治領としての地位を与え、連邦制の政府、二院制議会に責任を負う行政機関、そしてアメリカ合衆国権利章典に触発された19の基本的人権を認めることを提案している。
国民運動を分裂させる分裂
1916年にインド国民会議とムスリム連盟の間で締結されたラクナウ協定から受け継がれた、宗教に基づく分離選挙制度の原則を拒否したこの報告書は、それまでイスラム教徒少数派に与えられていた保護を覆し、当時ムスリム連盟の指導者であったムハンマド・アリー・ジンナーの反対を招いた。ジャワハルラール・ネルーとスバス・チャンドラ・ボースに率いられた国民会議内の若い世代は、この文書は野心が不十分だと考え、単なる自治領の地位ではなく、完全な独立をすでに主張していた。
最終的に1929年にイギリス当局に却下されたこの報告書は、インド国民会議が公式目標を変更するきっかけとなり、自治領の地位要求を放棄し、翌年末までに完全な主権、すなわちプールナ・スワラージを要求するようになった。
欧州共同体
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