1637年5月26日、イギリス植民地コネチカットにおいて、ピューリタン兵士とその先住民同盟軍は、ピクォート族の本拠地である要塞化された村ミスティックを攻撃した。わずか1時間足らずで、村は焼き尽くされ、数百人の男女子供が虐殺された。数ヶ月にわたる緊張と対立の末、入植者の安全を名目に行われたこの作戦は、ニューイングランドにおけるヨーロッパ人と先住民の関係に、残酷な転換点をもたらした。「ミスティック虐殺」は、アメリカ植民地時代初期のインディアン戦争において、最も血なまぐさい事件の一つとなった。
植民地間の緊張から生まれた戦争
1630年代初頭以来、ピクォート族はニューイングランド南部における地域貿易の一部を支配していた。しかし、イギリス人入植者の増加に伴い、地域の均衡が崩れた。ヨーロッパ人によって持ち込まれた天然痘の流行はピクォート族の人口を激減させ、部族を恒久的に弱体化させた。同時に、ナラガンセット族やモヒガン族との商業的・領土的対立も激化した。
1636年、ブロック島近郊でイギリス人商人ジョン・オールドハムが殺害された事件を受け、マサチューセッツ当局はピクォート族の共謀を非難し、懲罰遠征隊を派遣した。交渉はすぐに決裂し、暴力沙汰に発展した。1636年から1637年の冬にかけて、ピクォート族はセイブルック砦を包囲し、入植者に対する度重なる攻撃によって恐怖と憎悪の雰囲気が高まった。そこでピューリタンの指導者たちは、脅威とみなしたこの部族との紛争を軍事的に終結させることを決定した。
フォート・ミスティック虐殺事件
1637年の春、ジョン・メイソン大尉は約90名のイギリス兵を率い、数百名のモヒガン族とナラガンセット族の同盟軍の支援を受けた。彼らの標的は、ピクォート族の戦士とその家族が暮らす要塞化された村、ミスティック砦としても知られるミシタックであった。
5月25日から26日にかけての夜、攻撃者たちは密かに村を包囲した。夜明けとともに、彼らは要塞化された家々に火を放った。炎に閉じ込められた住民たちは逃げようとしたが、城壁の外で射殺された。当時の記録によると、死者は400人から700人に上るとされている。女性や子供も犠牲になった。イギリス側の損害は最小限だった。
メイソン大尉は虐殺を神の意志によるものだと正当化し、神がペクォート族を植民者の手に委ねたと主張した。この宗教的かつ絶滅主義的な論理は、当時すでに一部の人々に衝撃を与えていたが、すぐに先住民に対する全面戦争のモデルとなった。
国家の破壊
ミスティックの戦いの後、戦争は追跡劇へと変わった。生き残ったピクォート族は数ヶ月にわたり、地域一帯で追われた。彼らの指導者ササカスは、他の部族に身を寄せようとして殺された。多くの捕虜は奴隷にされたり、イギリスと同盟を結んだ諸部族に分散させられたりした。
1638年9月21日に締結されたハートフォード条約により、この紛争は正式に終結した。ピクォート族は土地、自治権、そして自分たちの名前を使う権利さえも失った。その後、植民地当局は組織化された民族としての彼らの存在を抹消しようとした。
アメリカの歴史学では長らく植民地側の単純な軍事的勝利として描かれてきたミスティック虐殺事件は、現在では複数の歴史家によって、将来のアメリカ合衆国の領土で行われた最初のジェノサイド行為の一つとみなされている。
欧州共同体
注釈
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