1904年4月8日、フランス共和国とイギリスはロンドンで「英仏協商」として知られる一連の外交協定を正式に締結した。これは正式な軍事同盟ではなく、両国間の長年にわたる植民地紛争を解決するための妥協案であり、両国はしばしば「宿敵」と形容されていた。この緊張緩和は、その6年前にスーダンのファショダ危機において両国が武力衝突寸前まで至っていたことを考えると、なおさら注目に値する。
欧州の均衡の弱体化
19世紀後半以来、ヨーロッパは緊張状態にあった。1882年、ドイツの宰相オットー・フォン・ビスマルクは、フランスを孤立させロシアを封じ込めるため、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアを結集した三国同盟を結成した。しかし、ビスマルクの退位後、皇帝ヴィルヘルム2世は、特に海軍力において、イギリスの海軍力に対抗しようと、より野心的で攻撃的な政策を採用した。このドイツの台頭に直面したイギリスは、「華麗なる孤立」を懸念し、フランスとの戦略的な関係改善を検討し始めた。
困難ではあるが決定的な和解
フランスでは、外交的孤立を打破し、1871年のアルザス=ロレーヌ喪失後のドイツへの報復を準備しようと熱望していた外務大臣テオフィル・デルカッセが、関係改善を積極的に推進した。イギリス国王エドワード7世も重要な役割を果たした。熱烈な親仏家であった彼は、依然として反英感情が根強く残る世論を味方につけるため、1903年にパリを公式訪問した。当初の歓迎は冷淡で、敵意に満ちた叫び声が飛び交ったが、国王の魅力と友好的な態度が最終的に世論を味方につけた。
強化が期待される合意
1904年4月に締結されたこの協定は、複数の条約から構成され、主要な植民地紛争を解決した。フランスはモロッコにおける影響力の承認を得て、イギリスはエジプトにおける地位を強化した。ニューファンドランドの漁業権に関するものなど、その他の意見の相違も解決された。この「英仏協商」は、国際関係における大きな転換点となった。正式な同盟ではなかったものの、両国間の永続的な協力関係への道を開き、その協力関係は10年後の第一次世界大戦において、中央同盟国による共通の脅威に直面した際に、完全に実現することになる。
欧州共同体
注釈
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